「名前」とは不思議なもので、それを知っているだけで相手のことが分かった気になるものです。

逆に、相手の趣向や来歴を知っていたとしても、名前が分からないと何だか落ち着きません。本質には関係がなくとも、対象となる人や物を判断するにあたって名前は重要な基準となるのです。それだけ世間では「名前」というものは重視されています。


古来、「諱」という文化が我が国にありました。

詳しく話すと長くなるので内容は調べて頂きたいのですが、要は貴人が自身の身を守るために本名を他人に教えない、という風習です。これは言霊信仰にも関わってくるのですがそんな難しく考える必要はないでしょう。脅威から身を守るために本名を隠すのは理に適っています。

現代で言えばインターネット上でハンドルネームを用いるのと同じようなものです。
そう考えると、世界的にはFacebookが普及しているのに対して我が国ではTwitterの方が利用者数が多いのは、本名をできるだけ明かしたくないという習慣が日本人には沁みついているからなのかも知れませんね。(考えすぎか……)


それはともかく「名前」は人の存在を証明する一つの手段であることに変わりありません。

そういえば、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」でも主人公の少女は名前を奪われていました。そしてその名前を取り戻すことが本映画の重要なストーリーとなっています。それだけ「名前」は特別な“持ち物”なのです。


シャドーハウスにおいても「名前」は物語に大きく関わっています。

アニメでは初回にケイトがエミリコに名前を付けるシーンが描かれました。
漫画でも第24話でケイトがエミリコに名前を付けた理由が感動的に描かれています。

また、エミリコだけではなく各登場人物の名前も様々な工夫が凝らされています。

それを見ていると、ソウマトウ先生のキャラクター達への思いがこれでもかと伝わってきます。だからどのキャラクターも魅力的なのでしょうね。シャドーハウスがなぜ読者の心をつかんで離さないのか、その理由の一つが分かった気がします。


しかしここ数話で、名前の由来が分からない人物が急にクローズアップされてきました。


もう一人の重要人物・ケイトです。


シャドーハウスの物語が幕を開けて以来、主人公のエミリコと共に活躍してきた彼女。

他のシャドーとは一線を画すケイトの姿は、エミリコが敬愛し、ジョンが恋心を寄せ、ショーンにさえ「不思議な魅力のあるお方だ」と言わしめるほどです。

最初は警戒していた読者の方々でも、今もケイトに対し疑いを持つ人は少ないのではないでしょうか?


しかし、読者が当初抱いていた違和感は正しいものでした。

「私(ケイト)にはやることがあるのに…!」「秘密をすべて話すわ」

事あるごとにそう語っていたケイトには、秘してきた決意があったのです。


誰も知らない彼女の正体。

それはケイトの「本当の名前」に隠されていました。


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ミラーサイドの湖畔に吹いた一陣の風。
舞い上がる帽子を見事キャッチしたエミリコは、持ち主に返そうと相手の少女に駆け寄ります。

ところが少女は、顔を手で覆いながらエミリコを払いのけました。

遠目からでも分かる全身が黒く染まった異様な風貌。
そして、第1話でエミリコがケイトの顔を覗き込んだ時のことを彷彿とさせるやり取り。

我々にとって既視感のある姿をしたその少女は、帽子を手に取ると森の奥へと姿を消してしまいました。


エミリコはというと、相手の少女に顔がなかったことに驚きながら後ろ姿を見送ります。

ケイトとエミリコの出会いは偶然が呼び寄せた、ほんの一瞬の出来事でした。

恐らくこの後は何もなかったのでしょう。
次の場面では、エミリコの仕事の様子が描かれています。

当時の名もなきエミリコは「雑用」と呼ばれていたように、ステージ以外でも様々な作業をしていました。この日はサーカスのグッズ、ピエロのぬいぐるみや団長ワッペンを作っているようです。

エミリコが刺繍が得意だった理由がここで判明しました。
皮肉にも、この時の経験がシャドーハウスに行った後に功を奏します。


ところが、この時のエミリコは全く別のものを作っていました。

それを目ざとく見つけた団長。
エミリコが余計なことをしているんじゃないかと彼女が作っていたぬいぐるみを取り上げます。

一応彼の心を代弁するなら、グッズ用の布を使って勝手なものを作るんじゃないといったところでしょうか。まあこればかりはエミリコも怒られても仕方ありませんね。

しかし団長はエミリコが作っていたぬいぐるみを見ると、怒るのも忘れて青ざめました。


どうやら、エミリコが今朝遭遇したのは「顔なし妖精」という存在だというのです。

団長曰く、ミラーサイド付近の森に出現すると噂されるその妖精は、出会った相手の姿に化けるそうです。そして夜にその妖精に出会うと、顔を奪われて死んでしまうと語りました。


姿に似合わずこんな噂を真に受けるとは団長も臆病ですが、よっぽど気味が悪かったのでしょう。
エミリコが作っていたぬいぐるみをごみ箱に捨てると、芸の練習をしろとエミリコを追いやりました。
(その後ろでは、団長は迷信深いと二人組が会話しています。やっぱり。)


そしてサーカス本番当日。

昼が過ぎ、サーカスが始まり、日が暮れて観客が帰り、そして夕方。

ようやく前回描かれた、ショーン達とのやり取りへと場面が移りました。

シャドーハウスへ行けば幸せな生活が待っていると聞いたエミリコが、テントへと戻る場面です、エミリコは元気よく「荷物をまとめてきます!」と手を振りました。


しかしあの時、ショーン達が「遅いな」とエミリコを待ちかねていたその裏で重要な邂逅が起こっていました。

エミリコが荷物をまとめている間に現れた人影。

あの人影の正体は、まさに今朝エミリコが出会った全身が黒い少女でした。


その少女を前にしてエミリコは、「やっぱり私は死んでしまうんですか…?」と問いかけます。

先の団長の話によれば、自分に似た姿の「顔なし妖精」に出会った者は死んでしまうといいます。エミリコからすれば、今朝の妖精が自分の顔を奪いにテントにやって来たと勘違いしてもおかしくないでしょう。

それに、ようやくこの生活から抜け出して幸せを掴もうとしているのに、ここで死んでしまっては悔やんでも悔やみきれません。エミリコはその「顔なし妖精」に涙目で訴えました。


しかし相手の少女の反応は意外なものでした。

「え?」

エミリコの話を一通り聞いた少女は、団長の言っていた話を聞いて噂話だと一蹴しました。
それに彼女の言う通りエミリコと湖畔で会ったのは早朝のことです。

それを聞いて、エミリコはようやくホッとしました。


ただそうすると、なぜ少女がテントに忍び込んでいたのかという話になります。

エミリコの疑問に対して少女は「探し物」をしていたと答えました。実は黒い布を探していたというのです。

エミリコはその申し出に快く答えると、ここから物々交換が始まりました。


ゴミ箱の中から黒い布を差し出すエミリコ。
自分の着ていた白い服を渡す少女。
自分の持っていた黒い服を渡すエミリコ。

そして少女の服と自分の渡したものでは釣り合わないというエミリコに対し、ゴミ箱から見つけたぬいぐるみを「こんな良いものなら」と貰っていく“ケイト”

これで等価交換となりました。


いえ、等価交換ではないですね。

“ケイト”は別れ際に、エミリコに対して笑顔が素敵と言って去っていきました。

団長からヘラヘラ笑うなと言われ、ショーン達の前では笑顔を打ち消してしまっていたエミリコ。しかし“ケイト”のこの台詞は、エミリコにとって何にも代えがたい嬉しい言葉でした。エミリコが自信を持って選別会へと挑むことができたのは、彼女の台詞があったからこそだと私は思っています。


しかしこのテントの中での二人のやり取りには、語るべきことがあまりにも多くあります。

例えば、黒い布が必要だと言っていた少女ですが、なぜ上等な身なりをした彼女が黒い服を欲していたのでしょうか?そしてこの服を着た少女は、第74話でスタンダードを着たケイトを想起させますが、果たしてこれは偶然でしょうか。

また、エミリコが作っていたぬいぐるみは第10話でケイトが「大切なもの」と激怒していたぬいぐるみでした。そのぬいぐるみがなぜケイトの部屋にあったのでしょうか?

おまけに少女はエミリコをじっと見て、背丈が一緒だと呟いています。これは何を意味しているのでしょうか?

そして何よりも、ここで出会った少女の名前が“ケイト”だという事実です。
彼女は我々がこれまで見てきたケイトと同一人物なのでしょうか?


不思議な少女がテントが去った後、白い服を抱き締めながら余韻に浸るエミリコ。

全てが始まったあの日のことを思い出したエミリコは、あの時の穏やかな気持ちとは正反対に、戸惑いを抱きながら主人の前に立ちました。

場面は今現在のシャドーハウスです。静寂の支配する部屋の中で、エミリコの声以外に聞こえてくるのは暖炉の中で燃えるすす炭の音だけです。

その炎が燃えるのと同じように、エミリコはふつふつと思い出した記憶を主人に語り掛けました。


サーカス当日に出会った少女が気になって演技を失敗したこと。
そのためにクビを宣告されて泣いていた時、ショーン達に出会ったこと。
シャドーハウスのことを聞いて自分も行きたいと思ったこと。
選別会に参加したくて名簿に書いた“ケイト”の三文字。


しかしそれらすべてを思い出したとしても分からないことだらけです。

第45話でエドワードが、そして第68話でマリーローズが説明していたように、“シャドー”とはモーフが生き人形(人間)に擬態した生命体です。にも関わらず、ミラーサイドで出会った“ケイト”は既に人間の形態をしていました。これまで開示されてきた情報をどう解釈しても矛盾だらけです。

ここから導き出される結論は一つだけです。

“ケイト”という少女はシャドーハウスという枠組みから外れた存在だということです。

エミリコはとうとう、決定的な疑問をケイトにぶつけました。


「ケイト様はどこからミラーサイドへやってきたのでしょうか?」


エミリコの台詞を聞き一瞬沈黙するケイト。

しかしゆっくりと椅子から立ち上がると、全ての記憶を取り戻した従者に向き合い、自身の出自を明かしました。


「私の名前はケイト・ミラー」


そして続けて、“ミラーハウス”を取り戻すためにシャドーハウスへやって来たと語ります。ケイトの本当の名前にこそ、彼女の本当の目的が隠されていたのです。


私はなぜ、ケイトが正式な名前である“ケイト・シャドー”という名を第1話以後言わなかったのか疑問に思っていました。しかしそれは今回判明しました。そもそも彼女はシャドー家の人物ではなかったからです。

また、「ケイトの顔とエミリコの顔」という記事でも書きましたが、ケイトとエミリコの顔が違うことも此度決定的となりました。そもそも彼女はエミリコを模倣した存在ではなかったからです。

そして物語初期から伏線として秘されてきたケイトの「大切なもの」も明かされました。あれはケイトにとって、エミリコとの絆を象徴する宝物だったのです。


しかしそれでもなお、分からないことばかりです。

ならばケイトの原型となった人物は誰なのでしょうか?
ミラーハウスとは何なのでしょうか?
ケイトとミラーハウスはどのような関係なのでしょうか?

そして一番の謎は、ミラーハウスとシャドーハウスにはどんな過去があったかという疑問です。

それは必然的に“偉大なおじい様”の素性の解明へと至ることは間違いないでしょう。


ケイトとエミリコという最重要人物同士の邂逅が明かされた今も、「シャドーハウスってなんなのでしょうか?」という根源的な問いは物語にまだ横たわっています。